統語論で扱う文構造とは(その3)

過去2回にわたって、筆者が執筆したブログ記事で、入試問題で出たという問題を取り上げました。

【前回までの振り返り】

問.
「叔父が海外に行く」「私は父と見送りに行った」「急いで見送りに行った」という内容を一文で表したとき、解釈をする上で誤解の生じないものはどれか。

ア 父と私は急いで海外に行く叔父を見送りに行った。
イ 父と私は海外に行く叔父を急いで見送りに行った。(正解)
ウ 私は父と海外に行く叔父を急いで見送りに行った。
エ 私は父と急いで海外に行く叔父を見送りに行った。

正解は<イ>で、最初の記事では、その答えを理論言語学の観点から解説しました。また、不正解だったもののうち<ア>の選択肢について、その統語構造を前回の記事で説明しました。今回は残りの2つについて統語論の立場から考えていきたいと思います。

前の記事で説明した通り、日本語の母国語話者が文を書いたり話したりする際に、頭の中には「樹形図」で表される階層構造(統語構造)ができあがっています。下記に<イ > の構造を再掲します。

<イ > の統語構造

一方、選択肢<ア>の文からは、前回のブログに記載したように、「急いで」という副詞句が、それぞれ主節の動詞「見送りに行く」と、関係節の中の動詞「海外に行く」を修飾するという2つの構造が考えられます。

不正解だった選択肢<ウ>について

<ウ>の文を見てみると、副詞句「急いで」は正解の<イ>同様、「見送りに行く」という動詞の直前にあります。つまり「急いで」は「見送りに行った」のみを修飾する解釈しか取り得ない位置に生じています。それではなぜ<ウ>の文は正解にならないのでしょうか。

<ウ>の文では、<イ >(および不正解の<ア>)と異なり、主語は「私は」となっていて、「と」でつながれた「父と私」ではありません。<ウ>の「父と」はこれまで見てきた例と異なり、動作を共に行う相手を表す後置詞句として、副詞的な機能を担っています。これが <ア>の場合と同じように、主節の動詞「見送りに行く」を修飾する場合と、関係節の中の動詞「海外に行く」を修飾する場合の2つの可能性が生じます。

① 海外に行く叔父を、父と私が急いで見送りに行った。(<ア> の①の意味と実質的には同じ)
② 父と叔父が一緒に海外に行くことになっている。私はその二人を急いで見送りに行った。

不正解だった選択肢<エ>について

<エ>の文も「ウ」同様、主語は「私は」となっていて、「父と」は動作を共に行う相手を表す後置詞句として動詞句を修飾する副詞句となり、<ウ>と同じ2つの解釈が生じ得ます。さらに、<エ>は<ア>と同様「急いで」が「海外に行く叔父」の前に出てきているので、副詞句「急いで」の解釈も<ア> と同じ2つの可能性が生じます。従って、理論的には副詞句2つと動詞2つの組み合わせで、4通りの解釈が生じ得ることになります。

① 海外に行く叔父を、父と私が急いで見送りに行った。(<ア> の①の意味、および<ウ>の①の意味と実質的には同じ)
② 海外に急いで行く叔父を、父と私が見送りに行った。
③ 海外に父と一緒に急いで行く叔父を、私が見送りに行った。 
④ 海外に父と一緒に行く叔父を、私が急いで見送りに行った。 (<ウ> の②の意味と実質的には同じ)

ところが、ほとんどの方が④の解釈は不可能だと判断すると思います。これはなぜでしょうか。次の4つの構造を比較してみてください。

不可能な④の解釈のような、主節の動詞を修飾する副詞句が、それ自体より前に出て来ている関係節の中の動詞を修飾するような構造を生み出すような文法知識を日本語の母国語話者は持っていません。従って、いくら<エ>の文の動詞と副詞句の組み合わせが4通りあるといっても、④の解釈の背後にあると考えられる構造が生み出せないのであれば、④の解釈は不可能となります。

以上3回にわたって、文構造と多義性について、具体的な例と共に考えてきました。自然言語の文構造について、少しでも興味を持っていただければ幸いです。